2019-01-18

懊悩 (01_0002_001)

今年も確実に猛暑だ。すべての作業を中断させられる。温暖化のせいで、気休めでは解決することのない暑さが毎年続いていて、それはおそらく今後も続く。さらにあのいまわしい大地震の影響の電力不足で、エアコンの設定温度がどこも上がっている。日曜日は涼を求めてファミリーレストランに行ったが、最初の温度差から感じたのも次第に薄らいで、数日間の出来事を記録しにいったのが、結局扇子を仰ぐのに一生懸命になり、ほとんど間食をしにいっただけの時間となった。

この数日、私は眠っていたのを起こされるかのように、外の世界と接触した。私が実家で気安い生活を送っている間も世界は進んでいる。そんな当たり前のことを実感させられた。
私は10年前にアルバイト生活で収入を得ていた目的が、本当の自立をするためのものでなくて、文字通り形式的に仕事をしているという状態を維持するためのものだったいう事実が、今もなお引きずられていることに気づかされるのだった。

たしかに私は今、正社員として仕事をして、そこに責任があり、最低限求められる水準のものを提供できているという自負はある。だが、そこに私の人生を支えるほどの精神に満たされているわけではない。私はやはり枠に自らをはめ込んで、自分をその枠の形になることを望んでいる。私は自分という人間を自らで定義することがいまだにできていないのだ。
────「私」という人間。それは観念的なものばかりではない。自分の未来を具体的に長いスパンで考えられているか。結婚をいつまでにして、どんな車を買って、いつまでに家を買うか。そんな当たり前の人生の夢でいいのに、それが私には欠落してしまっている。「私」という人間は私の人生と一緒で漠然としている。だから、私には目標があるはずもなく、つまり進歩もない。自分の人生をどうしたいのか。

かつて、私を好きになってくれた女性も私と同じ悩みを抱えていた。彼女はその答えを非営利団体のとある思想家に求めた。最後まで私はその人物の言葉を理解することはできなくて、それが別れの理由にもなったのだが、茫漠とした人生の中に身をおきつづけるよりよほど「有意義」なのではなかったか。私は今そう感じるのだ。
昨日、私は兄弟の紹介のお見合いにいった。相手の女性はやや程度を超えていると感じられるほど快活で無邪気だった。私の性格と合うかは正直わからないが、それでもまだ可能性は感じさせた。私ともう一度会う意志はあるようだ。前述の女性の存在もあったし、私と男女の関係にならないと断言できるものでもあるまい。

────しかし、それがなんだというのだろう。本質的な部分が解決していないのに人生の重大な関係性を気づくことを許容していいものなのだろうか。私の思慮が不足しているところは結局、人生の軸がないこと、これに尽きる。
家に帰れば、酒をかっくらう生活を続けてきた。実際のところ、私の半生はそんな殺伐としたものだった。これから────私はきちんとした人生を構築できるだろうか。

自然にできるものではない。常に考え、創っていく意志がなければ私の人生は酒だけが傍らにあるような人生になってしまうだろう。人に何ら誇ることのできない、「なんとなく」の人生。そんなものでいいのか。私はお見合いの席で、女性の兄とも会った。彼は足が不自由で、常に松葉杖の助けを借りて歩いている。しかし、彼は今税理士の試験を受けるために酒を断ち、勉強を続けているという。

「俺はこんな足も悪いし、取り立てて優れたところもない。ほんと不公平だ」

彼は朗らかに言った。そのとき、私は自分の存在がとても恥ずかしいものだと感じざるをえなかった。私を取り巻いていたものはいったいなんだったか。

私は自分を定義する。そのためのあらゆる方法を考えなくてはだめだ。誰かに吐露するわけではない。今、自分が取るに足らない存在であることを自覚してその上で次の場所を目指すのだ。やる気を出すことを、どれほど単純で青臭い発想であっても、それが私の内部から発露したものである以上、認めないなんてことはできない。

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